信長上洛~京都・織田信長入京から450年~
2018.7.7(土) 〜 9.2(日)
永禄11年(1568)9月26日、織田信長が足利義昭を奉じて京都の東寺に入りました。室町幕府の実権を握っていた三好勢は各所で抵抗を試みますが、織田の軍勢に圧倒されて敗退を重ね、間もなく京都は織田信長が制圧するところとなったのです。そして10月18日には足利義昭が征夷大将軍となり、室町幕府は信長の軍事力を背景にようやく秩序を回復させたのです。この後、信長は抵抗する諸勢力と戦いを繰り広げ、ついには足利義昭を京都から追放し、天正10年(1582)に本能寺で最期を迎えるまでおよそ14年間京都周辺を中心に活動しました。
織田信長の上洛は、日本史上の大きなインパクトとして広く知られています。旧来の秩序を破壊し新たな時代を切り開いた改革者としての織田信長の人物評は、おそらくこの上洛の一件以降の事象から想起されたものでしょう。信長の上洛をもって近世が始まったと唱えた歴史研究者もあり、信長の上洛はその事実以上に大きな意味を後世にもたらしています。果たして「信長上洛」とは何だったのでしょうか。
この展覧会では、織田信長の上洛前後の様相を伝える古文書を中心に、当時の京都の世相を伝える資料を展示すると共に、織田信長という人物とその行動が後の世にどのように語られていったのかについて、検証してゆきます。
織田信長が現れる以前の京都では混乱した政治状況が続いていました。10年にも及んだ応仁の乱(1467−77)によって足利将軍家は弱体化し、政治の実権は幕府の管領である細川氏へ、さらにはその家臣である三好氏へと移っていました。特に三好長慶(1523—64)の時代には、三好氏は幕府の実権を掌握し畿内近国の治安維持に務めました。しかし長慶が亡くなると政権内部には動揺が起こり、権力の行方は再び混沌とし始めたのです。そうした中で、第13代将軍足利義輝の弟である足利義昭(1537—97)は、将軍への就任復帰を画策して若狭から越前へと渡り歩き、永禄11年(1568)7月、ついに美濃で織田信長と出会うのです。
織田信長(1534–82)は、足利義昭の求めに応じて永禄11年(1568)9月7日に兵を挙げ岐阜を出立しました。織田軍は途中で近江の大名六角氏を退けると、その年の9月26日には東寺に入ります。その後、織田軍は三好三人衆のひとり石成友通を勝龍寺城から追い、摂津の三好方であった池田勝正を敗退させるなど、京都近郊から三好勢を一掃します。そして翌月18日に、足利義昭は征夷大将軍に任じられるのです。
将軍となった義昭は、信長の軍事力を背景に京都やその周辺地域の安定をはかってゆきますが、その治政には、義昭に付き従ってきた細川藤孝や明智光秀、そして信長配下の武将である村井貞勝や木下藤吉郎らが関わってゆきます。
足利義昭と織田信長の協力による政権運営は長くは続きませんでした。元亀元年(1570)には三好勢のほか浅井朝倉勢や比叡山延暦寺、さらには石山本願寺など諸勢力が信長への抵抗を開始し、天正元年(1573)には足利義昭も信長と袂を分かちます。信長は義昭を京都から追放すると、独力での政権運営の方途を模索し始め、一方で各地の抵抗勢力を駆逐しつつ政権維持に努めます。しかし、天正10年(1582)6月2日、京都本能寺において明智光秀に討たれ、信長はその生涯を終えるのです。
その後、明治時代になって、織田信長を勤王の武将として賞賛する動きが持ち上がります。京都では、明治8年(1875)に織田信長を祀る建勲神社創建の発議がなされるほか、明治28年(1895)に創始された平安建都千百年紀念祭時代風俗行列(現在の時代祭)では、信長公上洛列が再現され、織田信長への顕彰意識が高揚してゆく契機となっています。
作品 | 時代 | 所蔵 | 展示期間 |
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色々威腹巻 | 室町時代後期 | 京都府 (京都文化博物館管理) | 前期 |
紺絲威胴丸 | 室町時代 | 京都府 (京都文化博物館管理) | 後期 |
三好長慶折紙 | 弘治2年(1556) 12月27日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
三好長慶書状 | (年未詳) 12月12日 | 京都市歴史資料館 | 後期 |
三好義継禁制 | 永禄8年(1565) 7月日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
三好長逸等連署禁制 | 永禄8年(1565) 12月日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
松永久秀書状 | (年未詳) 2月27日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
松永久秀書状 | (年未詳) 4月11日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
松永久秀書状 | (年未詳) 12月5日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
松永久秀書状 | (年未詳) 10月9日 | 京都市歴史資料館 | 後期 |
三好康長等連署書状案 | 永禄10年(1567) 3月3日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
三好宗渭・長逸書状 | (年未詳) 12月7日 | 京都市歴史資料館 | 前期 |
一乗院覚慶(足利義昭)禁制 | 永禄8年(1565) 10月11日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
一乗院覚慶(足利義昭)書状 | 永禄8年(1565) 12月29日 | 京都市歴史資料館 | 前期 |
足利義秋書状 | 永禄9年(1566) 卯月18日 | 京都市歴史資料館 | 通期 |
足利義秋書状 | 永禄9年(1566) 6月11日 | 京都市歴史資料館 | 通期 |
織田信長禁制 | 永禄11年(1568) 9月日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
織田信長朱印状案 | 永禄12年(1569) 4月21日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
織田信長書状 | 元亀2年(1571) 8月14日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
織田信長朱印状 | 元亀元年(1570) 4月23日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
織田信長朱印状 | 元亀3年(1572) 9月3日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
織田信長朱印状 | 元亀3年(1572) 9月28日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
織田信長奉行衆連署書状 | 永禄12年(1569) 4月16日 | 京都市歴史資料館 | 前期 |
織田信長奉行衆連署書状 | 永禄12年(1569) 4月18日 | 京都市歴史資料館 | 後期 |
細川藤孝書状 | (年未詳)正月7日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
細川藤孝書状 | 元亀4年(1573) 2月11日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
細川藤孝請文 | (年未詳)3月9日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
長岡(細川)藤孝折紙写 | 天正元年(1573) 9月14日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
村井貞勝書状 | (年未詳)10月2日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
明智光秀書状 | (年未詳)2月14日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
明智光秀書状 | (年未詳)2月24日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
明智光秀書状 | (年未詳)6月17日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
明智光秀書状 | (年未詳)10月9日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
木下秀吉折紙案 | 元亀元年(1570) 8月19日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
朝倉景健禁制 | 元亀元年(1570) 9月日 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
元亀二年御借米之記 | 元亀2年(1571) | 京都市歴史資料館 | 通期 |
江州姉川合戦 | 江戸時代 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
長篠合戦図 | 江戸時代 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
絹本着色 豊臣秀吉画像 都路 華香画 | 近代 | 京都府 (京都文化博物館管理) | 通期 |
紙本着色 織田信長像 (「十偉人像」より) | 江戸末〜明治時代 | 京都府 (京都文化博物館管理) | 通期 |
『織田信長譜』 | 寛永18年(1641)刊 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
『信長記』 | 元和8年(1622)刊 | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
『繪本拾遺信長記』 | 享和3年(1803)刊 | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
『政典』 | 明治8年(1875) | 京都府立京都学・歴彩館 | 前期 |
『建勲神社建築一件』 | 明治8年(1875) | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
『建勲神社建築一件』 | 明治9年(1876) | 京都府立京都学・歴彩館 | 後期 |
「千百年紀念祭 時代風俗行列」 石井行昌撮影写真資料 | 明治28年(1895) | 京都府立京都学・歴彩館 (京の記憶アーカイブより) | 通期 |
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※事前申込み不要 当日の入場者に限ります。