近代京都へのまなざし ― 写真にみる都の姿 ―
2017.7.1(土) 〜 9.18(月・祝)
写真の登場は私たちの意識に大きな変革をもたらしました。江戸時代の末に日本に到来した写真術は当初一部の人びとの間でしか使用されませんでしたが、それでも人やモノや風景の姿をありのままに写す機器の登場は、絵に描いて残すという行為以上に人びとの感覚を刺激しました。写真の登場によって、人は時代を記録する新たな手段を獲得したのでした。
やがて写真は広く一般に普及するようになり、それと共にさまざまな文物や情景が写真に収められてゆくようになりました。明治から大正、昭和へと、近代と呼ばれる時代が進展していく中で、写真にはそれぞれの時代のさまざまな姿が記録されてゆきました。
本展覧会では、京都に残された数々の古写真を紹介します。現在も古都と呼ばれる京都において、人びとは何にカメラを向け、どのようなまなざしを注いできたのでしょうか。古写真に写された様相と関連する品々の展示を通して、歴史と文化の都市である京都のすがたを追求します。
写真術は19世紀のヨーロッパで誕生した。特にフランスで開発されたダゲレオタイプと呼ばれる技法は鮮明な画像を残すことに成功し、瞬く間に世界へと広まっていった。日本に最初に写真術がもたらされたのもこのダゲレオタイプで、それは嘉永6年(1853)のアメリカのペリー来航によってであったという。その後程なくして、日本にはさらに進化した湿板写真技術が伝来し、また開国とともに多くの西欧人の写真師が来日することで、写真術は国内にも広く伝えられるようになる。
写真は、それまで肖像画を描くことでしか得られなかった人物の像に、鮮明であり、しかも複写が可能という、新たな可能性を与えることとなった。幕末以降、日本でも数々の肖像写真が撮影され、そのうちの幾つかは現在にまで残されて往時の様子を今に伝えている。写真技術の伝来と普及。それは市井の人びとの姿を記録し後世に残すことができるようになるという、新たな時代のはじまりであった。
写真術の伝来は、それまで絵を描く事で鑑賞されてきた風景へのまなざしにも変化をもたらした。幕末から明治時代初期に来日した西欧人写真師たちは、日本の風景をカメラに収めてその様相を世界に発信していった。開国以降、横浜などに設定された外国人居留地には写真館が開かれ、そこでは日本の風景写真などが観光土産として発売された。こうした写真は「横浜写真」と呼ばれ評判になり、日本人の中にも写真術を習得してこれを生業とする者が現れはじめた。
それでも湿板写真が主流であった明治時代初期、野外での撮影には大型の機材を必要とするなど困難が伴った。しかし乾板方式の写真術が日本にもたらされると、写真撮影の利便性は飛躍的に向上し、より多くの写真師たちがカメラを通して日本の風景にそのまなざしを向けるようになっていった。写真技術の向上は、日本の風景が撮影される機会を増やし、また写真に写された風景を人びとが鑑賞するというスタイルを確立させていったのである。
幕末に日本に伝わった写真術は、その技術の進歩によってやがて一般の人びとの間にも広まってゆき、それと共に、これまであまり被写体として注視されてこなかった対象にも、カメラを持つ人びとのまなざしが向けられていくようになった。それまで主流であった人物の肖像や風景を撮影するという趣向から、例えば生活の様態や仕事の様相など、人びとの日々の暮らしの営みが撮影され、写真として残されるようになっていったのである。
農作業の風景や漁業の様子、商売に精を出すものの姿、そして手工業に携わる職人たちなど、現在に伝え残された古写真には、それぞれの場面で働く人びとの姿が生き生きと捉えられている。また炊事や内職や化粧など、日常の何気ない姿を撮影した写真もある。人びとの暮らしや生業の姿は、時代とともに移り変わってゆくが、写真に撮影された往時のその様子は、かつて我々の文化の中に当たり前のようにあったさまざまな場面を、強烈な迫真性をもって眼前に伝えてくれるのだ。
京都には、長い歴史と伝統を有する祭礼行事が数多く伝承されている。葵祭や祇園祭など、京都の各所で催されてきた祭りや芸能の催される姿は、京都の魅力をさらに深めると共に、人びとに季節の移ろいや都の風情を感じさせてきた。こうした伝統文化としての京都の祭りの様子は、文字によって記録され、あるいは絵画として描かれる事で後世に伝えられてきたが、近代の到来と写真術の普及は、そこに新たに京のまつりの場面が写真に撮影されて残されるという状況を出現させた。
写真に撮影された京のまつりの風景は、文字や絵画によってやや抽象的な表現で記録されてきたものに加えて、祭礼のありのままをリアルに記録し、また祭りに携わる人びとの姿を克明にとらえはじめたという点でとても斬新であった。喜びの表情や困難な芸に挑む真剣なまなざしなど、まつりの催されるさまざまな場面で躍動する人びとの姿を収めた写真は、伝統的な京都の祭礼行事に新たな魅力を注ぎ込んだのである。
“芸術の都”パリ。明治28(1895)年12月28日、リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフがグラン・カフェで一般興行された。当時、京都府の留学生としてリヨンで染色技術を学んでいた稲畑勝太郎は、兄・オーギュストと知り合い、シネマトグラフを日本に持ち帰った。そして明治30(1897)年1月の小雪の舞う中、京都電燈株式会社の中庭(現在の木屋町蛸薬師にある元・立誠小学校があった場所)でその実験映写が行われたと伝えられている。それから今年で120年。稲畑から映画興行を任された横田永之助、作品を試行錯誤の中で撮影し、数々の俳優や監督達を世に送り出していった牧野省三らによって、京都は映画産業の土台を築いた。一方京都に住む人々は、新京極や西陣に林立していた映画館へ足を運び、作品から次々と生み出される新たな表現を、多様な興行スタイルの中で享受していった。製作者たちと観客は“京都”という町全体を舞台にして、映画という芸術を育んでいったのである。
写真の登場は、人びとに目の前に展開するありのままの様子を写し取れるという魅力を教示した。当初の写真は、人物の姿や風景など絵画表現の延長として使用されてきたが、技術の進歩に従って写真が次第に人びとの間に広まってゆくと、写真を撮る側と撮られる側の双方に写真というものが定着し、写真に対する抵抗感は直に無くなっていった。そして、当初はぎこちなく写っていた人物の表情も、やがては柔和な姿をとらえるようになり、自然な笑顔の写真も数多く見られるようになっていった。
カメラを手に入れた人がそのまなざしを向けたのは、風景や文物と共に、やはり身近にいた家族や知人であった。明治や大正や昭和初期に撮影された家族の古い写真にも、今と変わらない笑顔の人の姿がある。そこには、愛するものたちへカメラを向けた写真家たちのやさしいまなざしが溢れている。本節では、石井行昌が残した人物写真に着目する。石井は公家の末裔で、明治時代中期から大正時代にかけて写真の撮影活動を積極的に行なった人物でもある。石井の写真を通して、彼が近しい人びとに向けたまなざしを追ってみよう。
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