〜室町幕府滅亡後450年〜 祇園祭
—足利将軍が見た山鉾巡行—
2023.6.17(土) 〜 8.13(日)
祇園祭の歴史は平安時代初期にさかのぼり、都の安寧を脅かす疫神の退散を願った祭儀に由来するとされています。それから幾多の年⽉を経て、今から七百年ほど前には⼭や鉾の姿が登場しはじめ、室町時代には現在のような絢爛豪華な⼭鉾巡⾏の原型が整えられました。
室町時代は京都に幕府が開かれ、⾜利家が代々将軍職を受け継いでいましたが、歴代の将軍も⼭鉾の巡⾏を⾒物しました。その様⼦は貴族や武家の⽇記などに記されています。今年は、15代将軍⾜利義昭が織⽥信⻑によって都を追放されて室町幕府が実質的に滅亡してから450年となります。そこで、⾜利将軍が⼭鉾巡⾏を⾒物した様⼦などが記された京都府所蔵の資料を公開して、当時の様相を紹介してゆきます。
また、新たに京都府に収蔵された祇園祭関連の資料なども展⽰します。この展覧会を通じて⼭鉾巡⾏の⻑い歴史の⼀端を感じていただければ幸いです。
祇園祭に⼭や鉾が登場するようになると、⼈びとはその華やかな巡⾏の姿を楽しむために⾒物に出かけました。それは都の権⼒者たちも同様で、室町時代には歴代の⾜利将軍も祇 園祭の⾒物に繰り出しました。初代将軍の⾜利尊⽒は、⽂和4 年(1355)6⽉14⽇に御台所の登⼦と息⼦の義詮を連れて三条烏丸にしつらえた桟敷から祭り⾒物をしています。3代将軍⾜利義満も何度か祇園祭を⾒物していますが、応永6 年(1399)6⽉14⽇には、本来三条⼤路を巡⾏するはずの⼭鉾に四条⼤路を通るよう命じて、そこで⾒物をしています。 8代将軍の⾜利義政は、宝徳 3 年(1451)6⽉14⽇の巡⾏で⼭鉾を上京(現在の京都御所 北⻄付近)の義政の御所まで北上させて、⾃邸からこれを⾒物しています。
祇園祭の⾒物に際して、将軍は家⾂に桟敷席を設けさせました。公家の鷲尾隆康の⽇記 『⼆⽔記』には、⼤永2年(1522)6⽉ 27 ⽇の記事に、京極⽒が 12 代将軍⾜利義晴の祇園祭⾒物のために南北⼋間(約15メートル)の桟敷席を建てたことが絵⼊りで記されています。
応仁元年(1467)1⽉に起こった応仁⽂明の乱は、京都を戦場に⼗年以上にわたって戦いが続きました。この間、祇園祭の⼭鉾巡⾏も中断されてしまい、復活するのは乱の勃発から33年後の明応9年(1500)になってでした。乱が起こって以降に将軍に就任した9代⾜利義尚は、延徳元年(1489)に陣中で病没したので将軍としては⼀度も祇園祭を⾒物することはありませんでした。
祇園祭⼭鉾巡⾏は11代将軍の⾜利義澄の時に再興されます。しかし、幕府も⼤名も⻑らく続いた戦争のために疲弊していて、将軍も祭り⾒物にかかる費⽤を捻出できませんでした。それでも⼭鉾を⾒たかった将軍義澄は、⼥房衆の桟敷に混じってこっそり⾒物をしたとの噂が流れたといいます。
応仁の乱からの復興以降の将軍による祇園祭⾒物は、中断前の最後の⾒物をした8代将軍⾜利義政の時の平時の作法が踏襲されてゆきます。『年中恒例記』や『年中定例記』など、 室町時代後期に書かれた幕府の故実書には、義政による祇園祭⾒物が先例として記されています。
祇園祭⽩楽天⼭の前⾯を飾ってきた懸装品。中央には16世紀後半にヨーロッパで製作された『イーリアス』トロイヤ戦争物語のタペストリーからトロイヤから脱出する市⺠の部分を配し、その左右には波濤⾶⿓⽂様刺繍の中国清王朝の官僚服の裁断⽚を直したものを継ぎ合わせています。
祇園祭前祭の巡⾏に登場する放下鉾の模型。上京の旧家が所有し毎年祇園祭の宵⼭に合わせて飾られていた。昨年度京都府に寄贈いただいた品である。本体や⼈形は江⼾時代後期に作られたものであるといい、経年劣化のため幾度か補修が施されている。放下鉾の象徴である⽇と⽉と星の三光をあらわした鉾頭も再現されている。